りそなの原点

りそなの「誕生」と「危機」

1990年代前半にバブル経済が崩壊して以降、日本の金融界には強い逆風が吹いていた。
りそなグループの前身である、都市銀行の大和銀行グループとあさひ銀行は厳しい経営環境の下で生き残りを模索し、2001年9月、経営統合することで基本合意した。
2002年3月に経営統合を行い、新しい金融グループの創造にむけスタートしたりそなグループであったが、早々に難題が待ち受けていた。

01バブル経済崩壊後の不良債権問題の拡大と広がる金融不安

1980年代後半、日本経済では大規模な「バブル」が発生し、株価や地価が高騰したが、1990年代に入り一転、バブル経済は崩壊した。1992~1994年の経済成長率はほぼゼロとなり、企業の業績悪化が広がり、金融機関には多額の不良債権が発生した。

その後、1995年に国内景気がいったん回復軌道に乗ったタイミングで、政府は、世界的な金融自由化の流れへの対応として1996年11月、「日本版金融ビッグバン」と呼ばれる大規模な規制緩和策を発表した。

その後、金融ビッグバンに関連する法律や制度の整備が進んだが、金融機関側は依然、不良債権問題から抜け出せない状況が続いていた。その間に市場は変化を敏感に先取りし、財務内容が不安視された一部の銀行や証券会社の株価が急落、金融不安が広がっていくことになった。こうして1997年に三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が、1998年には日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が経営破綻し、日本は金融危機に陥った。

危機の連鎖に歯止めをかけるため、政府は1998年から1999年にかけて、金融安定化法と早期健全化法に基づき、大手銀行に対し一斉に公的資金による資本増強を行った。一方で各銀行は金融ビッグバンへの対応や経営体力の強化に向け動き出し、大手銀行を中心とした金融再編の時代に突入、メガバンクの誕生など大型の金融再編が続く状況となった。

02関西の金融再編の核を目指した大和銀行と
首都圏を地盤にリテールトップバンクを目指したあさひ銀行

大和銀行

りそな銀行の前身である大和銀行は、信託業務を併営する唯一の都市銀行として、また関西を地盤とし大阪府をはじめとする地方公共団体との公金取引などから、地域に密着した裾野の広い業務を展開していた。

バブル崩壊後、関西では経営難に陥る地域金融機関が多かったなかで、大和銀行は、関西の金融再編の核となって、金融システムの安定化に努力する方針を掲げていた。そして、大和銀行は、1999年2月、近畿銀行、大阪銀行と金融持株会社の設立を視野に入れた包括的な提携を進めることで合意した。大和銀行にとって系列を超えた提携であった。

2000年4月、近畿銀行と大阪銀行が合併して近畿大阪銀行となり、関西トップクラスの規模を持つ地方銀行として再出発した。また、2000年10月には、大和銀行、近畿大阪銀行、奈良銀行は戦略的提携に基本合意し、奈良銀行もグループに加わった。2001年8月、大和銀行、近畿大阪銀行、奈良銀行の3行は金融持株会社の設立による大和銀行グループの経営統合で合意。大和銀行グループは「スーパー・リージョナル・バンク」構想を掲げ、関西の地域金融機関との関係強化策を着々と進めていった。

あさひ銀行

もう一方の前身銀行であるあさひ銀行は、都市銀行の協和銀行と埼玉銀行が1991年4月に合併し協和埼玉銀行としてスタートした銀行であり、1992年9月に行名をあさひ銀行に変更した。「信頼のリテールトップバンク」を標榜し、首都圏を中心とした個人および中堅・中小企業取引に経営資源を重点的に配分し、地域密着型のリテール特化戦略を推進。特に個人預金は都市銀行12行中5位の残高を有し、店舗網も国内で443カ店と都市銀行2位のネットワークを有していた。また、1997年度には住宅ローン残高の伸び率と増加額が都銀トップとなるなど、リテール分野での強さを特色としていた。

金融の自由化への備えとして、あさひ銀行は、1998年9月、中京圏を地盤とする東海銀行との戦略的提携を発表し、さらには関西圏を地盤とする三和銀行を加えた3行統合に向けた協議を続けていたが、統合の方法に関する意見の相違などから2000年6月、3行統合から離脱した。

しかしながら、大型の金融再編が続く環境の中で、統合から離脱したあさひ銀行には、市場から厳しい目線が向けられ、新たな再編を模索していくことになった。

03新しい金融グループ「りそな」の誕生と金融機関をめぐる環境変化

このような金融不安が続く環境のなかで、2001年9月、大和銀行グループとあさひ銀行は「スーパー・リージョナル・バンク」構想のもと、経営統合に基本合意し、2002年3月、経営統合を実施した。都市銀行の持つ質の高い金融サービスと、地域銀行の持つ地域に密着したお客さまとのリレーションを融合した、従来のメガバンクでもなく、地域銀行でもない、新しい金融グループを目指しての経営統合であった。

2002年4月、新グループの名称「りそな」とグループ銀行の再編計画を公表し、本部機能を集約する持株会社(大和銀ホールディングス)の下に、全国展開を行い、専門的なソリューションを提供する「広域銀行」「信託銀行」と、地域に特化し、きめ細かい営業活動を展開する「地域銀行」に再編する方針を示した。

その後、2002年10月には、持株会社の社名をりそなホールディングスに変更し、翌2003年3月、大和銀行とあさひ銀行は分割・合併し、りそな銀行と埼玉りそな銀行に再編され、営業を開始した。

一方、この間、長引く不良債権問題を抱えた金融機関をめぐる行政の枠組みは変化し、銀行の経営環境も大きく変わりつつある状況であった。

2001年4月に誕生した小泉純一郎内閣では、金融機関の不良債権を「成長分野に資源が流れることを妨げる負の遺産」とし、不良債権処理を「後ろ向きの構造改革」と位置づけた。これを受けて同年9月の内閣改造で金融担当大臣を兼務することになった竹中平蔵経済財政政策担当大臣は不良債権問題への取り組みを加速させた。2002年10月には、「2004年度に主要行の不良債権比率を半分に低下させて正常化を図る」と目標を明確にするとともに、金融システム・企業再生・金融行政に関する3つの枠組みからなる「金融再生プログラム」をまとめ、金融機関の資産査定の厳格化、自己資本の充実、ガバナンスの強化の3項目を要請した。これは、従来からの金融機関経営について、大きな見直しを求めるものでもあった。資産査定を厳格にすれば不良債権の処理負担が増加し、結果として金融機関の自己資本が不十分になることも懸念された。

04新グループ「りそな」は、2003年3月期決算問題から公的資金の注入へ

このような情勢のなか、スタートを切ったばかりの「りそな」には次々と難題が降りかかった。

不良債権処理や株式・不動産の含み損処理の増加などにより、りそなホールディングスでは、2003年3月期決算について、2003年2月に黒字予想から赤字予想に修正、さらに翌3月には、もう一段赤字が拡大となる業績予想の下方修正を行った。

誕生早々、荒波に揉まれるりそなグループに、2003年5月、さらなる問題が追い打ちをかけた。

それは2003年3月期決算における繰延税金資産の計上についての問題であった。りそな銀行では、直前に策定の収益計画に基づき繰延税金資産を計上していたのに対し、監査法人は直近で3期連続の赤字となる状況を踏まえ、同資産を大幅に減額する見解を示した。しかし、繰延税金資産を減額すると、国内業務を担う銀行の自己資本比率の最低基準である4%を割り込んでしまう状況でもあった。

2003年5月の連休明けから、りそなと監査法人の間では再三の話し合いが持たれたが、一週間近い議論の結果、りそな経営陣は、繰延税金資産の減額を認め、自己資本の増強のため、公的資金の追加注入を要請する苦渋の決断を行った。そして、2003年5月17日、りそなホールディングスとりそな銀行では、臨時取締役会を開催し、2003年3月期決算における自己資本比率の大幅な低下から、自己資本増強に向け公的資金注入の申込みを行うことを決定し、金融庁に報告を行った。いわゆる「りそなショック」と呼ばれた出来事であった。

繰延税金資産とは、税効果会計に関連する勘定科目の一つ。不良債権等の処理に際して、有税の貸倒引当・償却を実施した際の前払い税金額のうち、将来の収益見通しに基づく回収見込額を資産計上したもので、全額の自己資本への算入が認められていた。

政府は5月17日夜、我が国初の「金融危機対応会議」を首相官邸で招集、小泉純一郎首相を議長とした金融危機対応会議メンバーが出席し、預金保険法第102条第1項第1号に基づき、りそな銀行への公的資金の注入を決定した。注入額は1兆9,600億円。りそなグループには、1990年代に受け入れた公的資金を含むと、累計で3兆1,280億円の公的資金が注入されることになった。同会議では2003年3月期決算で、りそな銀行の自己資本比率が国内で営業する銀行に必要な最低基準である4%を割り込んだ事態を重視し、「こうした深刻な資本不足を放置すれば、信用秩序の維持に極めて重大な支障が生じる恐れがある」と結論づけたことによる決定であった。

この公的資金の注入の背景には、2001年4月の預金保険法改正があった。この法改正により、国や地域の信用秩序の維持に深刻な問題が発生する可能性がある場合、首相が金融危機対応会議を招集し、銀行に公的資金を注入する措置を実施できる仕組みが整っていた。政府は、りそなグループに資本注入して経営の健全性の回復を図り、預金を全額保護する「特別支援」の適用第1号としたのであった。